くくるの乙女総集編

2010年10月~2013年11月頃までのカフエくくるのブログを家族 ろう者のくくるの乙女バンド  心の病とくくるの乙女にまとめました。 日常の会話はこちらです。http://kukurucafe.ti-da.net/

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てぃーだイチオシ

家族

夫婦のこと

   
婦人の主張大会で県知事賞を頂きました。


[原文]

私は、今言葉を話しています。
それは、私を支えてきてくれた方々のお陰です。私が母のお腹にいた頃、風疹が流行し聾唖の赤ちゃんが約400名生まれました。
その中の一人です。私の耳はまったく聞こえず補聴器をつければ音は聞こえますが、高低音が聞こえません。

3歳から聾学校に通い唇の動きから話を読みとる訓練、舌が丸くならないように皿を舐める練習、顎に風船をくっつけた時の喉の振動で[音とは何か]教えてくれました。
健康な赤ちゃんは自然に言葉を増やしていきますが、私にはできません。
母は[ミルク]の単語を教えるために、私がミルクと言えるまで与えてくれませんでした。周りから虐待しているように見えたのか[かわいそうにそれでも親か]と言われました。

私が6歳の頃母がいつの日か待っていた言葉[お母さん]が言えるようになったのです。
普通の小学校へ入学しましたが、耳の障害のためにいじめられました。
父の仕事が失敗し生活が苦しくなりました。
心配した母の友人は桜が冬の間耐えて春になるときれいな花を咲かせる、人生も負けなければ[冬は必ず春となる]と激励してくれました。
その言葉は母を奮い立たせ一生懸命働きました。
私がいじめに耐える事ができたのは、貧乏に負けず働く母の姿があったからです。
ある日、先生は[なぜ、私の耳が聞こえないのか]授業で話してくれました。すると信じられない事が起きました。
同級生が次々と謝ってくれたのです。
嬉しかったです。

中学校では、友達の会話の中に入る事ができず孤独でした。
そんな私に近所のお姉さんが[夢を持つこと]の素晴らしさを教えてくれました。私の夢は学校の先生になること。
幼い頃口に入れて舌の使い方を教えてくれた先生の音に報いたかったからです。お姉さんは難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。教科書を毎日何回も読み返しました。
成績は学年で一番ビリから少しずつ上がり希望の高校へ合格できました。

高校ではNHK杯青年の主張大会に出場する事になりました。
私は自分の声が聞こえないので、正しいアクセントが分かりません。
不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。
私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのか、わかってくれていました。
「これからの人生悔しいことが一杯あるだろう。目の前の厳しさから逃げないで乗越えてほしいよく頑張った」と喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。
私の名前が呼ばれたのです。言葉はどんなに努力して健常者に追いつくことは無いと思っていました。
先生の恩かみ締めました。

大学に合格しましたが「前例がない。耳の不自由な生徒では、先生は無理諦めなさい」と言われました。
それでもやってみなければわからない」と何度もお願いし大学は一切援助はしないとの条件で認めてくれました。
大学では黒板に字を書きながら講義が進められます。
先生の唇が読めず授業についていけません。
耳が聞こえる人を羨んでも仕方ありません。耳が聞こえない現実を受け入れるしかないと分かっていても「耳さえ聞こえれば」と愚痴が出て悔し涙がでました。そんな時、先輩の激励で自分はベストを尽くしていない事に気づきました。教授は分かるまで筆談で教えてくれました。
教授の誠意のお陰で卒業論文が学科最優秀賞の評価を頂き、難聴者として初めて教員免許を取得し卒業できたのです。

その後、臨時教員をしながら本採用を目指したのですが、集団面接で落ちました。私には他の受験者の意見を聞き取ることは困難で頑張り抜いた教員には悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが電話の応対が出来ないので断られました。そんな時、定時制高校の生徒達の姿が心の支えになりました。
昼間の仕事の疲れに負けず勉強に打ち込む生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが繰り返し教科書を読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年県職員の採用試験に合格しました。

人生の素晴らしさは人と人の出会い支えあう事です。
その中で人生のパートナーにめぐり合いやがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げている時思うのは母の事です。
泣き叫ぶわが子にミルクと言えるまでミルクを与えなかった母、胸が張り裂けるような毎日だったと思います。
母のお陰で皆さんの前で話をしている自分がいます。

最近母を東北旅行に招待しました。日本一の露天風呂で孫を抱きながら「
かわいい、かわいい、こんな幸せがくると思っても見なかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないと分かった時の驚き、これからどうやって育てていけばいいのか迷いながら、わが子だけの幸せを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃教えてもらった「冬は必ず春となる」との言葉が重なり幸せをかみ締めました。

主人の亡き父母は村の老人会長、民生委員として地域に貢献してきました。今度は私たちの出番です。
現在主人は体協理事、私は婦人会活動を通して父母の村を愛する心を受け継ぎ、婦人会の先輩から村を誇りとする心を教えてもらいました。
これからもめぐる季節のように【感謝」の気持ちを結いまーるにして人生を楽しみたいと思います。





NHKテレビ番組ろうを生きる難聴を生きるに妻の事が紹介されました。
2012年9月2日(日)夜
あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 前編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
風疹児の数が多かったことから、聴覚障害児を教えた経験がない、手話も知らない教員が、ことばの指導にあたることになった。比嘉真弓さんも、きびしい発声指導を経験した。地域の学校に通った真弓さんは、聞こえないことでいじめにあったが、「自分がくよくよしていては前に進めない」と頑張った。高校生のとき、担任から勧めめられたのは、「NHK青年の主張」に出場すること。母親から「挑戦しなさい」を言われた真弓さんは、自分の生き方を熱く語り、県大会で優勝した。

2012年9月9日(日)夜

あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 後編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
比嘉真弓さんは、現在、県立病院で事務の仕事をしている。周囲に自分の障害のことを説明し、「口元を見せてはっきり話して」と伝えることで、スムースに仕事を進めるている。
最近は、「音楽」に挑戦。夫が始めた手話カフェで、車いすの歌手・我如古盛健(がねこせいけん)さんに出会ってから、苦手だった音楽が「こころに響く」と感じ始めた。我如古さんの詩を手話で歌うほか、自分の書いた詩を、自分のリズムとメロディーで、自分の声と手話で歌うことに挑戦し始めた。



家内と結婚して良かったこと困った事。
 
良かった事 は安眠妨害と言われずにすんだ事です。 私のいびきはメチャクチャうるさいらしい。彼女は文句もいわずにスヤスヤ僕のそばで寝ています。  困った事は夫婦喧嘩はいつもぼくが負ける事。喧嘩して不利になると彼女は補聴器をとり「聞こえないもん」で押しとうします。
手話をすると顔を横に向いてしまいます。結局は私が疲れ果てて喧嘩は終わります。

体内時計
     
家内は朝6時なら6時に必ず起きる(目覚まし時計は使えない)仕事に遅れないようにしてたら自然にそうなったらしい。
          
     
読唇術

相手の唇読んで、話の内容を理解することですが 家内は読唇術と話の内容を予測して耳の不自由をカバーしている。
その読唇術と予測を間違えると誤解が生じる。例えば沖縄のアメリカの基地問題とかの話をしていたとします。そこへ、突然、アフリカの話が持ち込まれると混乱することがあります。アメリカとアフリカの区別の仕方は、アメリカのメとアフリカのフです。
メは唇を閉じフは唇が開いています。速い口調で話しをされると、唇が閉じているのか、閉じていないのか見落とし 話の流れからアメリカの話をしていると思ってしまいます。
友人との食事などでは、そのことを説明します。初めは、みなさん、家内と顔をあわせて、ゆっくり話してくれますが、話が盛り上がると、家内が耳が聞こえないことを忘れてしまいます。

 ある集会での出来事です。
中心者が下を向きながら話をしていたので口の動きを読み取れるように顔を上げて話をしてほしいとお願いしました。 わかりましたと返事をしましたが、また、下を向いて話をしていました。 話の内容は、相手の立場になって考えようでした。
 別の集会での話しです。中心者が本を抱え、唇が読み取れません。上と同じく願いしました。返事は、ハイでしたが、やはり、本が邪魔で家内は話の内容がわかりませんでした。 集会が終わり、次回から、耳の不自由な人にも配慮してほしいとお願いしました。
返事は、あんたが、通訳すればいいでしょでした。話の内容は弱い立場の人を応援でした。  
多くのろう者は、こんなことに慣れています。
不便であること、辛いことに慣れ、ある意味では、そう、割り切っていかなければ、生きていけないとのことです。

   
今日は9回目の結婚記念日です(2013年)。
いい奥さんもらえてよかったなと思うこの頃です。

結婚は親は反対していました。妻が障害者であるからでした。

義母も耳が聞こえないけど本当にいいの?と疑っていました。
本人も耳の障害で辛いことがあったようです。


私は逆に手話が覚えられていいと思いました。
親は耳が聞こえない子供を心配していましたがメチャクチャ元喜な息子が生まれました。
息子のことはここをクリックhttp://kukuruno.ti-da.net/e5495991.html

耳が聞こえなければ一緒に手話を勉強しようと思いました。

結婚して彼女で良かったと思ったときは7年前の出来事でした。
ある平和団体の盲ろうの友人から、そこの団体の会合での手話通訳を頼まれましたが迷惑と断られました。
そのことを妻に話しました。
妻はいいました。「テレビの音を消して。口がパクパクしているだけで楽しい?これが私の世界。盲ろうの人は、映像も見れないのよ」
大粒の涙を浮かべ怒りで震えていました。
耳が聞こえない人が身近にいながら、耳が聞こえない人の気持ちを知ら無さ過ぎる自分が情けなくなりました。
そのことが手話通訳設置をお願いし続ける力となり、7年目で実現しました。
妻の大粒の涙を見なければ健常者中心の社会に慣れていた私は罵倒されてまでお願いし続けることはアホらしいと思ったと思います。



12月30日
県知事賞受賞  NHKろうを生きる難聴を生きるテレビ出演 ケントミファミリーのメンバーとして海を渡ってのライブ活動と充実した歳月が流れ今年も終わろうとしています。
来年はじっくりと充電の年とし再来年は飛躍の年にしたいと思います。
来年もよろしくお願いします。
 

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この記事へのコメント
奥様の素晴らしい体験に心がじんわり、涙腺がゆるゆるとなりました。すべての出来事に深い意味があり、それを前向きにとらえた時にその人が輝きだす・・・
健常者でも不幸な人もいれば、ハンディがあっても幸福な人がいる。結局、幸福とはその人が負けないこと、自分に勝つことなんですね。そのことを改めて教えられました。11.18結婚記念日おめでとうございます。
Posted by 王者の剣 at 2013年11月19日 10:51
ちょさん、王者の剣さん、コメありがとう。
いつも二人のブログから元喜もらっています。
Posted by カフェくくる うるとらまんカフェくくる うるとらまん at 2013年11月19日 14:13
 
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