くくるの乙女で心に残った場面を集めてみました。
耳が聞こえないくくるの乙女と車椅子の宮城さんです。
宮城さんは首から下は動かすことはできません。健常者であれば身振り手振り、手話を覚えて会話ができますが宮城さんにはできません。
くくるの乙女も宮城さんのような重い障害ある人と会ったことはありません。宮城さんもろうあ者と会ったことはありません。
お互い会話をしたがっていましたがギクシャクしていました。
宮城さんはハーモニカを演奏します。首から下は動かない宮城さん、自分ができるのもは何かと考えハーモニカを思いつきました。
ハーモニカを固定して演奏すれば手が動かなくても演奏できます。
最初はハーモニカは口で吹いているだけで精一杯でした。やがて力強さがでてきました。
首から下は動かない宮城さんですがお腹から力を出せるようになっていたのです。
医学で考えればありえないことです。でも現実におきたのです。
あるライブのことです。
宮城さんが一生懸命ていんさぐの花をハーモニカで演奏しています。それをじっとみているくくるの乙女です。
彼女達には宮城さんのハーモニカの音は聞こえません。
それでも宮城さんのハーモニカを聞こうと一生懸命です。やがてお客様の拍手している様子をみてハーモニカの演奏が
うまくいったことがわかったくくるの乙女は「やったね」と満面の笑顔でした。
宮城さんも笑顔で返してくれました。一生懸命て素晴らしいと思いました。
マイケルと宮城幸春です
マイケルに宮城さんは激励のメールを送っていました。
宮城さんの心暖まるメールは頑なに閉ざしていたマイケルの心にヤル気を与えてくれました。
首から下が全く動かない宮城さんは口にストローのようなものをくわえパソコンを操作します。自分ができることを精一杯、誠実にする宮城さんにマイケル は確かなものを感じたと思います。
マイケルは車椅子マラソン大会でのライブ終了後に宮城さんに話しかけました。
「いつも連絡のメールありがとう」とお礼を言いました。
長年、心の病を患っているマイケルにとって「ありがとう」の一言を言うことは簡単ではありません。
障害の違いはあるけど人と人を結びつけるのは「くくる=心」だと思いました。
2012年02月25日
くくるでリコちゃん(ダウン症)ピアノを演奏してもらいました。
いつも母が一緒でしお母さんと一緒でないと不安なリコちゃんでした。
ところが、その日は母はそばいません。テーブル席からの見守りでした。
お母さんが側にいないと、やはり不安と緊張な様子です。
演奏中何度もお母さんの顔をみるために振り向いていました。
母親は強いと思いました。
娘が障害を乗り越え幸せに生き抜いてほしい、駆け寄りたい気持ちを堪えて心の中で一生懸命応援していました。
お母さんが側にいなくても演奏ができたことは小さな一歩だったかもしれませんが、そんな一歩一歩の積み重ねを親子は積んできました。
そんな親子に出会えて私は幸せな気持ちになりました。
2012年03月04日
くくるの乙女との練習の様子です。
2012年05月21日
先日は美里中学校でミニライブしました。
集団ではパニックなることもあるリコちゃんでしたが当日は見事に翼をくださいを演奏して一番大きな拍手を頂きました。
母さんの手紙が紹介されました。
娘は生後一ヶ月でダウン症と診断され、私たちはあまり知識ないまま知的障害、心臓に疾患がありますと言われ、どんな風に育ててといいのかとまどったのを今でも鮮明に覚えています。
それでも元気で生まれてきて命があるだけでも良かったと感謝し子育て一生懸命がんばりました。3歳で心臓は完治しピアを習い始めました。
12歳ごろから歌を習い成長とともに素敵な出会いがたくさんあり最近ではくくるバンド、ケントミバンドと出会い今日このステージ
で演奏できる事にとても感謝しています。
私たちは娘の成長とともにいろいろな人と出会い命の大切さを学びました。一日一日を無事に過ごせたことをあたりまえではなく感謝の気持ちで生活しています。
皆さんも両親からもらった命を大切にしてくださいね!
2012年05月29日
りこちゃんの夢は保母さんの助手になることだ。
お母さんと一緒に買い物に行き、お釣りの計算ができるよう頑張っている。
家の掃除、特にトイレ掃除が大好きなりこちゃんだ。
もう一つの夢は大学進学です。
今では一芸にすぐれていれば入学できる大学がある。得意のピアノで勝負です。
保育園の先生の助手への夢、大学進学への夢に向かいリコちゃん頑張れ!
2012年1月
涙涙の結婚式でした。トミさんの娘さんの結婚式行ってきました。
カンナアーテイストさんからの転載です。
花嫁のまどかさんの母親であるトミ~さん(比嘉富子さん)は多発性の癌の中「ケントミ」と言う沖縄民謡バンドを結成し県内外で活躍されている。しかし、この3週間ほど前から体調が急変して沖縄病院へ入院中だったが、母親の執念と言うか素晴らしい生命力で無事退院されて晴れて愛娘の晴れ姿を見ることができた。
昨年4月からこの車いすの花嫁挙式を夢見てきただけに感激はひとしおで・・涙がとまらない結婚式となった。沖縄の人々がカチャーシーを踊る姿も人際感動的で、つい自分も混じって踊りたくなった。
誰もが同じように幸せのベールに身を包み美しく輝く瞬間を・・と願っている。誰もが同じ想いだと思う。花嫁、花婿だけでなく、母親、父親とさらに多くの友人達に祝福されている姿を見ていると本当に実現できたことを心から喜びたい!
トミさん、2012年3月にガンで亡くなりました。
病院に1月頃お見舞いに行きました。私が少し弱音を吐くと「うるとらまん、笑顔でATM(明るく楽しく前向き)でいくんだよ」と怒られました。
さきほどまで危篤状態でした。それでも私のことを思って叱ってくれました。
苦しいことがあるとその時のトミさんの笑顔でATMでいくんだよの声が聞こえてきます。
精一杯生きていこうと思いました。
全盲の読谷山こずえさんくくるでのライブです。
あやなちゃん、うちの純子から手話を教えてもらいました。
聾唖者に喜んでほしいと手話ダンスに挑戦してくれました。これは2010年12月にくくるで披露した手話ダンスです。あやなちゃんには、聾唖者と健聴者の橋になっていただきたいと思います。
2010年12月22日北中城村の手話カフェくくるでの
車イス三線シンガー:筋ジストと闘うケンさんと
乳がんと闘うトミさんの
ケントミライブで
初公開した田島あやな5歳手話ダンス
生きる想い♡を伝えたい
仕合わせのウムイ唄
私の足は動きません でも私の夢はまだ動きます
愛車に乗って 太鼓をのせて
あなたに唄を届けます
三線の音と 太鼓の響き 島のリズムを体に受けて
みんなのお思いを受け止めて 熱い心の唄を届けます
あなたに勇気を少しだけ 仕あわせのウムイ唄
ハイサイおじーおばーチャーガンジュですか
いつもても皆さん 元気ですね~
おじーとおばーの笑顔で私も幸せもらえます
座ってしか 三味線弾けない私ですけど グブリーサビン
あなたーがいたから 私達もこの世にうまれてこれました
暖かな心を繫ぎとめる仕あわせのウムイ唄
私達も頑張りますから あきらめることだけはしないでください
私の唄で少しだけでも 元気になれたら幸せです
短い人生 こんなところで 立ち止まるなんて つまらない
あなたが生きているだけで 意味のあることだと思います
あなたの幸せを願って仕あわせのウムイ唄
オードリー・ヘプバーン
ローマの休日で有名なオードリー・ヘプバーンは第二次世界大戦中、こんな経験をしました。
オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、
オードリーの目の前で銃殺されました。
彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられました。
オードリー「 脳裏から離れることはありません。
当時、ナチスが町中をうろうろしていました。
ある時、ある瞬間に記憶がよみがえるんです。
大きな建物の横を通り過ぎた時のおぞましい声。
後になって、拷問されている人の声だと知りました。 」
オードリーは栄養失調のため急性貧血症、呼吸困難、浮腫を患いました。
戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだといいます。
ようやく戦争が終わり、彼女は努力を重ね女優になりました。
1989年に最後の映画を撮ってから
彼女は国際連合児童基金のユニセフ親善大使に就任し
内戦の続くソマリアやスーダンなど9カ国の子どもたちを抱きしめ、笑顔を届けました。
就任の際に、オードリーは
「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか
はっきり証言できます。
なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、
食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから。
幸せな子供時代を過ごすチャンスをみな与えられるべきです」
と語っています。
晩年50代になり慈善事業をする彼女がスクリーンに映る姿を見て
多くの人は老けた顔、シワの多さにガッカリしました。
オードリーは答えました。
「顔のシワは多くの出会いを重ねた愛の証です。
私は昔の顔より、今の顔が好きです(^^)」
1993年、63歳でオードリーは世を去りました。
オードリーは村の小さな共同墓地に葬られました。
愛するトロシュナを見渡せる小さな丘の小さな共同墓地に眠りました。