くくるの乙女総集編

2010年10月~2013年11月頃までのカフエくくるのブログを家族 ろう者のくくるの乙女バンド  心の病とくくるの乙女にまとめました。 日常の会話はこちらです。http://kukurucafe.ti-da.net/

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てぃーだイチオシ

ろう者のくくるの乙女バンド

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障害ある私が頑張る姿をとうして生きる喜びを伝えたいと語る舞ちゃんです。

とにかく明るいんです。会うたびに大きな声で「こんにちは」と挨拶をしてくれます。


音楽が幼い頃から好きで小学校4年から三味線を習い始めました。

三味線を習いたいと三味線教室に弟子入りをお願いしましたが「脳性麻痺の障害あるので無理です」と何度も断られたそうです。
何度断っても諦めない舞ちゃんです。お願いし続けて3年、師匠は根負けしました。
彼女は一生懸命練習しました。

3ヶ月練習すると音がでるようになり今では三味線のコンクールで数々の賞をいただけるまでに上達しました。

三味線を習い始める前は人前では話すことはほとんどありませんでしたが三味線が上達していくうちに社交的になった舞ちゃんです。

舞ちゃんのゴールドコンサートへの挑戦に大人でも震え上がるようなような恫喝、嫌がらせがありました。
一部のメンバーから「舞ちゃんが苦しんでいる、これからどれだけの嫌がらせがあるかわからない、うるとらまんが悪い」と私への非難がありました。
私への攻撃は何でもない。しかし、未成年で体が弱い舞ちゃんへの嫌がらせには悩みました。
眠れない日々が続きました。
しかし、舞ちゃんは強かった。
堂々としていました。
夢に向かっていく上で壁があるのは当然。乗り越えてみせると辛いことも幸せへの肥やしにしていく舞ちゃんです。
そんな舞ちゃんに大人の私達が勇気づけられました。





音楽をするのに一番大事な耳が聞こえないハンデイを工夫と努力で乗り越えようと頑張っている仲間、小児麻痺で手足が不自由なのを、人の何倍もの努力で三味線を奏でる仲間、心の病を誰にも理解してもらえない辛さを音楽で自分の思いをぶつける仲間がいる。

メンバーの頑張りを嘲笑う人がいる。
メンバーの分断を画策している人がいる。

凄まじい恫喝にあい、言いたいことを言えず震え上がるメンバーがいた。
勇気を出し、自分の思いをぶつければ深夜にも及ぶメール攻撃で体調を崩し仕事にいけなくなるメンバがいた。
体が障害のため弱いメンバーへの攻撃には皆んな心を痛めた。

私への中傷に怒り、嘆くメンバーがいた。
くくるの乙女の活動を嫌がる人からの中傷に我慢に我慢していたがハッキリ「あなたがたの音楽には私は何も言わない、私達の
音楽に何も言うな。音楽は自由に楽しむものだ」と毅然としていた。



心の病ある人への攻撃は凄まじい。心の病あるメンバーが心配だった。
人がどう思うが仲間と楽しく音楽をやるだけだと言ってくれた。
彼は、この3ヶ月、ほとんど毎日、遅刻せず練習に参加している。
メンバーはひるまなかった。
毅然と立ち向かった。そんなメンバーと音楽ができる喜びがある。



くくるに関わることでくくるが攻撃されるからとくくるのメンバーに会うことを控える友人がいる。
私は言った。「堂々とやろう。会いたいなら会おう。私達も会いたい。もう他人の目を気にして生きていくのはやめよう。
言わせるやつには言わせればいい。へんな噂を流すなら流せばいい」


これから堂々といきます。私達は攻撃されたから反撃をしょうとは思いません。
それは音楽への考え方の違いです。
攻撃する人の音楽の考え方は尊重し干渉はしません。
どうぞ、お好きなように中傷してください。
私達は楽しく音楽をやるだけです。
くくるの乙女の活動を喜んでくれる友人がいます。
その人たちのために頑張ります。そんなくくるを応援して頂ける皆さんに感謝です。
くくるの乙女は、どこのバンドとも比べようとは思いません。
演奏技術が素晴らしいバンド、パフォーマンスが優れているバンドといろいろありますが、背伸びをしょうとは思いません。
また、自分たちより下手なバンド(恐らくないと思うけど)と比べて優越感を感じることもしません。



私達が比べるのは昨日のくくるの乙女と今日のくくるの乙女です。
去年のくくるの乙女と今年のくくるの乙女、来年のくくるの乙女です。
音楽、仲間との触れ合いを楽しみ、小さな夢に向かっていく、その過程を楽しむことを大切にしょうと思います。




3月
ゴールドコンサートに向けて練習をしています。
今までの練習と違っているのはメンバーに課題曲の構成を考えてもらうなど創意工夫をしてもらうことでした。
自分達で考え、アレンジしていくことは、やってみると楽しいものです。

耳が聞こえないメンバーにどうリズムを合わせるか試行錯誤が続いています。
皆んな、一つ一つの動き、音に敏感になってきました。
格段に上達しています。
教える側は耳が聞こえないメンバーにどうしたら上達できるか模索し
格段に指導技術は向上しています。

残り1ヶ月頑張ります。


4月7日
くくるの乙女がどうしても音楽に合わない。
真弓は音は全く聞こえないが補聴器で音を拾うことができる。(周波数の合わないラジオを聴いている感じ)
純子は補聴器を使わず音は全く聞こえない。
純子は目で見たものだけを頼りにダンスをするが真弓よりうまい。
真弓は音を聞こうと神経を集中しているがやはり、ハッキリ、聞こえない。
その分、リズムが狂うようだ。

4月13日

真弓がリズムにあいません。そこで舞ちゃんやメンバーとアイコンタクト、目で聞く練習をしました。どうしても補聴器で音を拾うとします。しかし、補聴器では健常者のようには聞こえません。
目で聞くトレーニング大事と思います。録画して舞ちゃんの癖などを研究してタイミングを、リズムを体感できるよう頑張っています。





4月20日
ていんさぐの花、安里屋ユンタ練習しています。3ヶ月かかって今日、リズムが
合いました。一番難しいところがなんとか突破です。これから細かいところの練習です。







4月26日
わずかですがリズムが合いません。そこでかんちやんにカホーンをやってもらい、カホーンに合わせてリズムを合わす練習しました。耳が聞こえないハンディを目で補うことにしました。






4月28日
どうしてもリズムが会わない箇所ありました。耳が聞こえれば何でもないことです。3ヶ月練習しました。今回は思いきって削除しました。今までなんとか耳が聞こえないハンディを乗り越えようと努力してたので残念です。しかし、努力してきたことは無駄ではない。気持ちを切り替えて練習です。






5月3日
ゴールドコンサート予選動画撮影でした。
撮影した動画をおくり審査です。なかなかリズムが合いません。
30回ぐらい撮影しました。やるだけのことはやりました。
皆よく頑張りました。心の病あるメンバーが練習に遅れず参加しました。
今までになかったことです。仲間の励まし、時には叱咤もありましたが心の病を乗り越えました。
耳が聞こえないハンディをどう乗り越えるか試行錯誤しました。
最終的にカホーンを使ってカホーンを叩くリズムに合わすやり方になりました。そのためカホーンが前にいます。
小児麻痺、パニック障害を乗り越えての今日の日です。今日まで頑張れたのは、練習が楽しかったからだと思います。くくるの仲間は最高!

ろう者のくくるの乙女バンド

宮城幸春

過去のブログから宮城さんとの思い出をまとめました。


2012年4月12日

先日は宮城さんが初来店していただきました。http://koushun.ti-da.net/
いつかくくるに来たかったとうれしい一言いってくれました。
19歳の時、ダイビングの事故で手足が不自由となり車椅子生活となりました。
自分にできることは何?自分ができる社会貢献とは?
日々模索しています。
手足が不自由でもハーモニカならできると練習頑張っています。















首から下がまっく動けず手話身振りが使えない宮城さん、聞こえない話せないくくるの乙女達。
それでも会話が成り立つのだ。

宮城さんの口の動き、目の動きを食い入るようにみているくくるの乙女達、くくるの乙女の手話を全身で受け止めてる宮城さん。
宮城さんがハーモニカを演奏しているときくくるの乙女が尋ねました。「ハーモニカ演奏しているの??聞こえない。ハーモニカの音てどんな音??」音がまったく聞こえない彼女にハーモニカの音を説明することはできない私でした。

でも彼女たちは真剣な眼差しで宮城さんの演奏を聞いています。


くくるとくくるが分かち合う、そんな空間でした。


宮城さんに感謝状です。http://kukurucafe.ti-da.net/e6131358.html
前向きな姿勢に感動です。
彼のフエイスからの転載です。


嘉手納警察署 感謝状授賞式 2014/03


3月27日 · · 沖縄県中頭郡読谷村で撮影

去年の10月に会社設立後、初めての感謝状を頂きました。
どうもありがとうございました。
これからも個人としても会社としても微力ながら地域貢献・社会貢献を
継続して御協力できるように努めて参ります。
ご支援頂いている皆様に心より神謝致します。m(__)m

松川署長の退職を心より感謝を込めて御祝いと感謝申し上げます。
国民の皆さんの安心のために、どうもありがとうございました。m(__)m







2014年4月6日

先日


宮城さんがくくるの応援に来てくれました。宮城さんとは音楽仲間です。https://www.facebook.com/koushunsストローのようなものをくわえ自由にパソコンを使い仕事をしています。ハーモニカを首に固定して演奏しますよ。
久しぶりに宮城さんに会えて大喜びのメンバーです。

2014年4月16日
 宮城さんからのコメントです。
 胸がスカッとするコメントです。
うるとらまんさん、いつもありがとうございます。 くくるの乙女の皆さんの前向きに一生懸命さを見習って、自分ができる事を探しながら少しでも人のお役に立てる事ができるように、これからも楽しんで学んで活きたいと思っております。 これからも楽しんでよろしくお願い致します。(*^_^*)

zennkoku

全国からのお客様

過去のブログを整理しています。
手話カフエくくるでの3年間は私にとって驚きの連続でありワクワクでした。
全国からろう者のお主に大勢のお客様が来店して頂きました。(まだ整理中で追加します)

心より感謝申し上げます。

北海道2012年4月
北海道から荒木夫妻今回で2回目。
荒木さん、北海道でろう者の手話講師しています。沖縄にこられたときにはあちらこちらの手話サークルに引っ張りだこです。






茨城




茨城から渋谷さんがご来店です。
難聴の渋谷さん、沖縄各地の手話サークルに顔をだして沖縄の聾者、手話愛好家との交流を深めています。
今日は茨城からのご来店です。茨城の手話はかっこよかったです。2011年8月
ご来店ありがとう。





東京
2012年2月

今日は東京からマイミクで聴覚障害者の進むちゃんが来ていただきました。聾の漫画家の上原さん、手話堪能な土井さんもきてくれましした。
来店ありがとう。





2012年5月

今日は東京から進さん、今回で33回目の沖縄で沖縄大好き人間です。くくるは2回目です。埼玉から工藤さんがご来店です。
午前中は那覇市の手話サークルハトの会に参加しました。
お二人さんとも手話がうまいので(ろう者)質問攻めにあいました。

昼食をハトの会と一緒でしっかり交流してきました。
午後からはくくるバンドの練習に参加しました。
三味線練習中の進さん、ケンさんの三味線のひき方を食い入るようにしてみていました。
進さんは三味線を弾いたときの振動を体で感じながら練習にはげんでいました。帰りは県の重要文化財の仲村家を案内しました。
ご来店ありがとう。






2012年6月

東京から進ちゃん(左の男性)がきてくれました。
くくるは3回目のご来店で沖縄へは30回以上きている沖縄大好き人間です。耳は不自由ですが沖縄の三味線が大好きで練習しています。
三味線の振動の微妙を肌で感じて三味線、沖縄を楽しんでいます。


2012年8月






DNN http://www.dnn-japan.com/の佐山さん達がランチにきてくれました。
取材受けました。
2012年2月

2012年8月
東京都内のお客様です。今回で四回目のご来店です。手話バッチリ教えてもらいました。




2013年
東京からのお客様。
右は千葉さんで沖繩ろう学校で純子さんの友達です。左は平良さんです。
お店を閉店したことに残念がっていました。
千葉さん、平良さん、必ず東京いくからね。
来てくれてありがとう。


2013年2月
先日は東京からのお客様で手話通訳頑張っている大塚さんが来店してくれました。大塚さん、ありがとう。
2012年8月
今週は毎日東京から、ろうのお客様が来店しています。沖縄にいながら東京の手話を学べる贅沢!幸せです。ご来店ありがとう。小室夫婦、伊東家族、柳澤さん、沖縄楽しんでね。




神奈川
2012年3月
神奈川から聾のお客様です。
沖縄の聾者との交流会となりました。



7月

今日神奈川から松崎さん家族が来店してくれました。彩乃ちやん中学一年生、足、目、耳に障害あります。平塚ろう学校に通っています。三味線練習しています。

2012年1月7日
 先日は神奈川から明るくて元喜なお二人がきてくれました。
お二人とも手話がとてもおしとやかできれいなんです。魅力的な手話についつい見とれてしまいました。











滋賀県
2012年11月
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先日、滋賀県から西尾さんが来店してくれました。ろう者です。仕事で沖縄によくくるとの事でした。 
2009年のデフリンピック100キロ級金メダリストの山田さんとマイミクのケンケンさんがくくるにランチにきてくれました。滋賀県と横浜からのご来店です。
山田さんの沖縄での強化合宿の様子が今日の琉球新報で掲載されています。
山田さん、柔道の情熱、デフリンピックへの熱き思いを語ってくれました。









兵庫県

2012年3月


今回で2回目
姫路で聾学校の先生しています(写真も右)。


2012年6月兵庫県からのお客様です。(写真左)

大阪

2012年2月5日



先日は大阪から聾者のお客様がいらっしゃいました。
 木本昌美さんと梶原英俊さんです。
 木本さんは高校で手話を教えています。梶原さんは歯科技工士です。
沖縄の聾者と手話を勉強している方々との交流でくくるを利用してもらっています。今回で2回目です。




2012年7月13日



大阪からミニミニさんが娘さんと一緒にご来店してくれました。
今回で7回目です。。










2012年11月8日
大阪から大谷夫妻がご来店です。リフォーム中で営業できませんでしたが音楽で交流しました。大谷夫妻はろう者で手話歌が好きです。大谷さんが作った手話歌を一緒に歌いました。喜んでくれて嬉しいです。




岡山 
2012年7月24日

岡山からのお客様で横谷さん家族です。フェイスで友達になりました。







愛媛



さやかさんです。


2012年1月




愛媛から親子できていただきました。ちょうど地元、北中城村で向日葵畑が満開でしたので案内しました。





玉乃井さんです。くくるは五回目です。




福岡
福岡からのお客様です。手話が上手で純子さん喜んでいました。2011年12月10日






2012年3月

今回で2回目です。ありがたいです。
りこちゃんのことはブログで知っていたそうです。
お二人ともリコちゃんとYさんの演奏に喜んでくれました。






土曜日の夜(夜は完全予約制)は東京 神奈川 和歌山 兵庫と各地からきてくれました。
うれしいな。ご来店ありがとう。



北海道2012年4月
先日北海道から荒木夫妻が来店してくれました。
今回で2回目です。
荒木さん、北海道でろう者の手話講師しています。沖縄にこられたときにはあちらこちらの手話サークルに引っ張りだこです。うれしいです。ありがとう。





茨城




今日は茨城から渋谷さんがご来店です。
難聴の渋谷さん、沖縄各地の手話サークルに顔をだして沖縄の聾者、手話愛好家との交流を深めています。
これからも沖縄、くくるをよろしく!



東京
2012年2月

今日は東京からマイミクで聴覚障害者の進むちゃんが来ていただきました。聾の漫画家の上原さん、手話堪能な土井さんもきてくれましした。
来店ありがとう。





2012年5月

今日は東京から進さん、今回で33回目の沖縄で沖縄大好き人間です。くくるは2回目です。埼玉から工藤さんがご来店です。
午前中は那覇市の手話サークルハトの会に参加しました。
お二人さんとも手話がうまいので(ろう者)質問攻めにあいました。

昼食をハトの会と一緒でしっかり交流してきました。
午後からはくくるバンドの練習に参加しました。
三味線練習中の進さん、ケンさんの三味線のひき方を食い入るようにしてみていました。
進さんは三味線を弾いたときの振動を体で感じながら練習にはげんでいました。帰りは県の重要文化財の仲村家を案内しました。
ご来店ありがとう。






2012年6月

東京から進ちゃん(左の男性)がきてくれました。
くくるは3回目のご来店で沖縄へは30回以上きている沖縄大好き人間です。耳は不自由ですが沖縄の三味線が大好きで練習しています。
三味線の振動の微妙を肌で感じて三味線、沖縄を楽しんでいます。
くくるのペルー料理は少しからかったけど牛肉とジャガイモがおしかったそうです。
ご来店ありがとう。


2012年8月
東京都内のお客様です。今回で四回目のご来店です。手話バッチリ教えてもらいました。ご来店ありがとう!





2013年
先日、東京からのお客様がこられました。
右は千葉さんで沖繩ろう学校で純子さんの友達です。左は平良さんです。
お店を閉店したことに残念がっていました。
心が痛みます。東京からわざわざ来ていただいたことに感謝です。
今度は恩返しにこちらか全国に飛びたいと思います。
まだまだ全国に飛び立つほどの力はありませんが、くくるの乙女は練習熱心です。
サポーターも一生懸命応援してくれています。

3年間頑張りきれれば夢ではないとおもいます。
千葉さん、平良さん、必ず東京いくからね。
来てくれてありがとう。


2013年2月
先日は東京からのお客様で手話通訳頑張っている大塚さんが来店してくれました。大塚さん、ありがとう。
2012年8月
今週は毎日東京から、ろうのお客様が来店しています。沖縄にいながら東京の手話を学べる贅沢!幸せです。ご来店ありがとう。小室夫婦、伊東家族、柳澤さん、沖縄楽しんでね。







心に残る言葉








ローマの休日で有名なオードリー・ヘプバーンは第二次世界大戦中、こんな経験をしました。
オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、
オードリーの目の前で銃殺されました。
彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられました。
オードリー「 脳裏から離れることはありません。
当時、ナチスが町中をうろうろしていました。
ある時、ある瞬間に記憶がよみがえるんです。
大きな建物の横を通り過ぎた時のおぞましい声。
後になって、拷問されている人の声だと知りました。 」
オードリーは栄養失調のため急性貧血症、呼吸困難、浮腫を患いました。
戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだといいます。
ようやく戦争が終わり、彼女は努力を重ね女優になりました。

1989年に最後の映画を撮ってから
彼女は国際連合児童基金のユニセフ親善大使に就任し
内戦の続くソマリアやスーダンなど9カ国の子どもたちを抱きしめ、笑顔を届けました。
就任の際に、オードリーは
「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか
はっきり証言できます。
なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、
食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから。
幸せな子供時代を過ごすチャンスをみな与えられるべきです」
と語っています。
晩年50代になり慈善事業をする彼女がスクリーンに映る姿を見て
多くの人は老けた顔、シワの多さにガッカリしました。

オードリーは答えました。
「顔のシワは多くの出会いを重ねた愛の証です。
私は昔の顔より、今の顔が好きです(^^)」

1993年、63歳でオードリーは世を去りました。
オードリーは村の小さな共同墓地に葬られました。
愛するトロシュナを見渡せる小さな丘の小さな共同墓地に眠りました。
一分間で感動より



女優としてのオードリー、飢餓に苦しむ子供と寄り添うオードリーどちらも素敵です。


 


 








オードリー・ヘップバーン


あなたの人生に”豊かさ”をもたらす偉人の言葉さんの写真をシェアしました。
.

私にとって最高の勝利は、

ありのままで

生きられるようになったこと、

自分と他人の欠点を

受け入れられるようになったことです。




オードリー・ヘップバーン

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最高だぜ。
これを言い切れる人生て素敵過ぎる!

心に残る言葉

心に残る言葉 1

THE BEATLES





新しい年となった。
ビートルズの言葉が浮かんできた。
ジョン好きに生きたらいいんだよ。だって君の人生なんだから」
   人の言うことは気にするな。こうすれば、ああ言われるだろう、、、こんなくだらない感情のせいでどれだけの人がやりたいこともできずに死んでいくのだろう


リンゴ:「ぼくたちは決して立ち止まらなかったんだ


人間が死ぬことは100%の確率だ。例外はない。
それでも私は、その100%の確率を考えないで生きてきた。
考えないと言うより、考えないようにしてきた。

これからは臨終の時を考えて生きていこうと思う。
これで最後の別れの時、周りの人の視線が気になり、やりたいことをやらずに死んでいくことはしたくないものだ。

過去のことは、さようなら。

失敗したことにくよくよしても何も変わらない。
それより、今日できることに精一杯努力したほうが価値的だ。

過去のちょっとした成功は、さようなら。
立ち止まってはいけない。リンゴのように!

先日 ビートルズの言葉を紹介したら、こんな反響ありました(一部修正)。


新年、久々の風邪をひいて、色々な方の、Facebookを見せていただいていたら、このメッセージに、であった。

そう。これなのだ!!!!

私の人生なのだから私らしく生きればいいのだ。この仕事をしていると、どうしても他人の言葉や言動が、気になって…行動がやや止まってしまうときがある。

周りの意見に耳を傾けることは、とても大切だけれど、私らしく生きる 。 それこそがいちばん大切なということを忘れがちになる。
自分の信じていること、自分らしく表現できる 1年にしたいと強く思った。

風邪でフーフーしといるときに出会った、このメッセージ。風邪にかかるのも、たまにはいいな思った。(笑)




乙武洋匡さん





 自分のやりたいことが分からない、定まらないという時、どうしても次の一歩が踏み出せなくなってしまう。
 でも、「人生はゴルフとは違う。」と僕は思っています。

 ゴルフは、遠くにある穴に自分のボールをいかに少ない打数で入れるかを競う。
 一打目をあらぬ方向に売ったら、どんどん打数が増えて予選落ちです。
 けれど人生では「打数」を考える必要はない。

 第一打をとんでもない方向に打ったとしても、第二打、第三打と次々打って、ゴールに近づいて行けばよい。
 失敗を恐れてじっと立ち止まっているだけでは、経験値が少しも得られないのです。  しかも人生はゴルフと違って、最終ゴールであるピンの位置が動くこともある。たとえ一打目が最初に目指していた
方向から大きく外れてたものであっても、あれこれと悪戦苦闘しているうちに、「案外、自分のやりたいことは、こっち
に近いかも知れない」と、ピンの位置がどんどん動いていくことが人生だと思うのです。
 僕の場合も著書「五体不満足」の出版がとんでもない第一打(笑い)。自分ではコントロールできない程、方向違いの
遠くに飛んでしまったが、必死になって動くことで、少しずつ進むべき道が見えてきた。
 動けば本当に視界が変わる。自分の経験からも、立ち止まるな、うずくまるなと言いたい。








うーんと唸ってしまいました。
耳が聞こえないくくるの乙女の誕生は、音楽は嫌いだ。健聴者が音楽を聞いて泣いたり喜んだりするのがわからない事がきっかけだった。
(くくるの乙女のことはここをクリックhttp://kukuruno.ti-da.net/e5496079.html

乙武さんの苦労とは比べられないが自分なりに悪戦苦闘しながら耳が聞こえない乙女と心の病ある人の音楽を追求してきた。

今は、心の病ある仲間が喜んでもらえるバンド活動を考えている。(以前のことはhttp://kukuruno.ti-da.net/e5496211.html

耳が聞こえない人が音楽活動することは簡単ではないが、心の病ある人が音楽をすることはそれ以上に困難だ。

耳が聞こえなくても、やる気さえあれば目で振動でリズムを感じ取ることができる。
心の病ある人は、そのやる気を起こし、持続させることが難しい。
先程も、仲間と話し合いをしたが、いい返事はなかった。

乙武さん、「立ち止まってはいけない」ビートルズと同じことを言っている。
そうだ。立ち止まってはいけない。 

能力も金も何もない私だ。情熱だけは失ってはならない。できることをコツコツやり続けようと思う。



高橋歩
「七転び八起き」なんて甘い、甘い。

「億転び兆起き」ぐらいのテンションでいこう。
せっかく追いかけ始めた夢を
自分の才能やセンスがないことにして
あきらめるのは勝手だが、何か寂しい。

「いつか見てろ!」って叫びながら、
信じて続けてみな!

最後の最後に、一度でも成功すれば、
過去のすべての失敗は、
「経験」 と呼ばれるんだから。


ーーーーーーーーーーーーーーー

この言葉を聞くと、
燃えてきたぜ!
さー突っ走るぞ!




魂を揺さぶる言葉たちさんの写真をシェア


 



モハメド・アリ




人生に”豊かさ”をもたらす偉人の言葉さんの写真をシェアしました。


.

「不可能」とは、

自らの力で世界を切り拓くことを

放棄した、臆病者の言葉だ。


「不可能」とは、

現状に甘んじるための

言い訳にすぎない。


「不可能」とは、

事実ですらなく、単なる先入観だ。


「不可能」とは、

誰かに決めつけられること

ではない。


「不可能」とは、

通過点だ。


「不可能」とは、

可能性だ。


「不可能」なんて、

ありえない。


IMPOSSIBLE IS NOTHING.



モハメド・アリ





矢沢永吉

1998年、 オレはオーストリアで被害総額30億円以上という、 とんでもない横領被害に遭った。
犯人は長年、 一緒に仕事してきたオレの部下だった

うちの女房はいいことを言った。 「あなた、 FやKを憎んだところで、 今さら消えたお金と時間が返ってくるわけじゃない。
やらなきゃいけないことは、 ほかに山ほどあるわ。 かわいそうなヤツらだと思って、 こっちからパスしちゃいなさいよ。 あんまりあの人たちを憎むことにかかわらないほうがいいわ。 憎んだら、 あなたまで持っていかれちゃうわよ」 そうだよな。

「世の中はみんな盗人だ」と思って、 いつもピリピリしてたんじゃ、 いい音楽はつくれない。


負債と取り立て。 こいつは苦しい。 でも、オレは負けない。

オレは歌える。 借金を返すのに何年かかるかなんて、 そんなもん、たいしたことない。 死んだらほんとのおしまいなんだよ。 やっぱり。 矢沢永吉著「アー・ユー・ハッピー?」 角川文庫2004年4月発行より その後、矢沢永吉さんは35億円もの 借金を1人で6、7年で完済しました。
どんな不利な状況でも希望を捨てずに チャンスとして受け止めていきたいと思いました。



矢沢永吉、かっこよすぎるぜ。私も頑張る!

補足編徒然草

徒然草 1


失敗失敗の人生だった。
バブルに浮かれて弾けると急降下で1100万円の借金した。
朝昼晩365日9年間 皿洗い交通警備のバイトを掛け持ちした。サラ金数社から追われていた。30分おきに返せの電話で辛かった。
それでは期限内では完了しないと怒鳴られても、正直に払える金額を払い続けた。
裁判所で調停してもらった。
金融会社からの電話で忘れられない一言がある。
後2回で支払いが全部終わる頃だった。
「あと2回で終わりですね。逃げると思いました。頑張りましたね」担当者がニコニコしていた。
たったそれだけのことだが私は号泣した。
その一言が9年間の借金生活は無駄なことではないように思えた。

金融会社に働いている友人が私のために上司に頭を下げてくれた。もし、私が払わなければボーナスカットにもかかわらず
頭を下げてくれた。

お金には恵まれていなかったが人に恵まれていた。
今は亡き両親、最高の両親だと思う。

とても両親の真似ができない。親孝行したかった。
親戚も最高だ。冠婚葬祭をはじめお世話になり感謝している。
村も最高だ。小さな村だがだれもが自分の村に誇りを持ち、こんな私に地域の役員をさせてくれた。
友達も最高だ。耳が聞こえないくくるの乙女がライブができるのは献身的なサポーターのおかげだ

一番最高なのは家族だ。
息子は耳が聞こえない妻の耳になってくれている。自然にそうなった。いい息子と思う。

私が精神障害者の就労支援しているとき、精神障害者への嫌がらせがあった。
私、妻へも嫌がらせあった。
嫌がらせあっても我が道をいく妻だ。

そんな妻をみて、やっぱり、妻と結婚して良かったと思った。
私が妻に一番ひかれたのはいじめにあい、それを乗り越えてきたからだ。
妻の話し方を真似して笑う人がいた。
妻と友達になると耳が聞こえなくなると伝染病患者扱いされ孤独だった。

人は辛い体験をしたとき、人に優しくなれると思う。妻を見てそう思った。

お金 仕事 人間関係 健康に悩まない人生、順風満帆な人生とは、どんな
人生だろう?

もし、バブルが弾けず、順調な人生だったら、私は幸せになっていただろうか?
はっきり言えることは傲慢で人を見下す人間になっていたことだ。
それは、私が一番嫌いな人間だ。
そして妻と結婚することもなかったと思う。
何はともあれ、大事なのは今だ。過去を悔やんでも何も変わらない。
楽しく夢に向かうぜ!





心の病とくくるの乙女

マイケル後編

マイケル前偏http://kukuruno.ti-da.net/e5496211.htmlです。


2012年2月 ~2013年 10月 マイケルを中心にまとめてみました。
2月1日

マイケルとSさん、一時期うまくいかないことがありました。
人の三倍働くSさん、マイケルのスローな仕事にイライラしました。
心の病は理解し難く なまけものにみえたのでしょう。
作業を分断したらSさんは自分のペースで仕事ができるのでイライラがなくなりました。
ですが若干、二人には不協和音がありました。しかし、Sさん、マイケルが仕事を彼なりに頑張っていることを理解するようになり話をすることがなかった二人でしたがマイケルに料理を教え始めました。
心を開いたSさんも偉い、わだかまりなく、素直に料理を習ったマイケルも偉いと思いました。


2月8日 

うるとらまんとマイケルはくくるで音楽を教えてくれているCさんが経営する居酒屋でお酒を飲んでいます。
Cさん、自分にとって音楽とは何かを語ってくれました。
離婚し何もかもいやになった時期がありました。自殺未遂を2回しました。人と会うことができませんでした。精神病院にぶち込まれました。
金網の中にいました。ふと見るとギターがありました。私は看護士にギターを貸してくれと頼みました。イルカのなごり雪を歌いました。
歌っているとき一人の女性が私に近づいて私のそばで歌を聞いてくれました。看護士さんが驚きの顔で私に問いかけました。
看護士 「なにがあったんですか」
Cさん 「なにがって、ただギターを弾いていただけですよ」
看護士 「彼女は17年間、この病院で食事のとき以外は、ずっと歩いているだけで立ち止まったことがないのですよ」
それから、この病院では音楽の力に着目し毎週土曜日はカラオケ大会をするようになりました。
ただ自分の心の隙間を埋めるための音楽から人に喜んでもらう音楽をと考えるようになりました。
子供達が離婚しても、世界でお父さんはひとりだけだよ。の一言に心に何かがはじけました。
やがて退院しました。有名になりたいとかCDを売りたいとかの気持ちは消えました。
人に喜んでもらえる音楽、自分が楽しむ音楽をもとめるようになりました。

4月3日

マイケル、神響さんが一曲一曲に真剣に歌っているのに驚いた様子です。
 マイケル
   神響さん、3曲あんなに力こめて歌ったたら疲れちゃうよ。  俺は疲れないように省エネギターだけど。
 神響さん 
   聞いてくている人に感謝の思いで歌っている。    
 マイケル
   ケントミのトミさんもすごい!ガンで体がきついのに、太鼓のバッシが 飛び散るほど太鼓をたたいている。
   あんな小さな体のどこにパワーがあるのだろう。


6月5日
ある行政の関係者Tさんが、マイケルに会いにきた。

 心の病を抱えている人の応援をしているTさんはマイケルがくくるのスタッフとして頑張っていることを大変喜んでくれた。
 そんなマイケルに、同じ心の病を持ち家から出れない方々の家庭訪問してほしいとお願いした。
 音楽の話ならできる。くくるではライブしているので誘うことはできる。いっしょにギターでもひいて遊ぶことなら いいよと社会復帰への手助けになるのなら と答えた。自分ができることで少しでも人が喜んでもらえるならの気持ち、とてもすばらしいことだとおもいます。







彼が元喜になったのは音楽と仲間の力だ。
毎週火曜日はかんちゃんのフオークライブの日だ。マイケルはかんちゃんとギターを演奏しているときは輝いている。
公的機関の職員とは世話している、指導している、世話されている、指導されている関係になりがちだ。
かんちゃんにはそれがない。同じ音楽を愛する仲間と同一に接してくれている。普天間高校時代の仲間と楽しむマイケルです。




12月8日

マイケルは元気がありませんでした。そんなマイケルに宮城さんは激励ライブスケジュールのメールを送っていました。
宮城さんのメールは頑なに閉ざしていたマイケルの心にヤル気を与えてくれました。
首から下が全く動かない宮城さんは口にストローのようなものをくわえパソコンを操作します。自分ができることを精一杯、誠実にする宮城さんにマイケルは確かなものを感じたと思います。


マイケルは宮城さんに 「いつも連絡のメールありがとう」とお礼を言いました。
長年、心の病を患っているマイケルにとって「ありがとう」の一言を言うことは簡単ではありません。




昨日,かんちゃんのスナックなごり雪でライブありました。マイケル初の有料ライブです。それは彼の夢でした。


普天間でくくるの乙女と神響ライブしました。マイケルも一緒に参加しました。
神響さんのギターと歌声にお客様はお大喜びです。
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トップノートでライブで耳の聞こえない家内にがキーホードを教えています。人に喜んでもらえることしている時は命の輝きを感じます。



心の病ある人たちの音楽祭がありました。マイケルはデイケア仲間とドラムで参加し最優秀賞頂きました。数年前まで引きこもりだったとは誰も信じられない彼でした。




2013年

11月5日
Tさん、Oさん、Mさんが私の家にやってきた。
3人とは社会貢献を考えている仲間でマイケルの家を何度も訪問するが
なかなか会えないとのことであった。

マイケルは居留守を使っている。
しかし、「何度も来てくれるから悪いなと思うけど、ドアを開けることができないんだ、メモが玄関に挟まれている。来てくれているんだ。悪いとは思うけど・・」
マイケルは感謝しているが長年居留守を使っていて、会えない気まずさがあるマイケルの気持ちを伝えた。

それから心の病の病気のことで理解が深まり意気投合してきた。
心の病ある仲間に何ができるか、話しした。まずは目の前の人 マイケルを応援していこうとなった。

彼らは社会貢献で忙しい仲間だ。ひざ詰めで対話したいと言い続けて10年目でやっとで


11月12日

今日はマイケルと夢の話をした。
  うるとらまん
  「元喜か」
マイケル
  「まあまあだな」

うるとらまん
  「デイケアに毎日通えるようになったな。朝おきて夜は寝るとの生活はどうだ」

マイケル
  「まあまあだな」
うるとらまん
  「マイケルは先ずは生活のリズムを作ることが大事だからな。いつ寝ていつ起きているかわからない生活から脱皮したね。よう頑張ったな」

マイケル
  「そうだな。まあまあだな」
うるとらまん
  「そろそろ、仕事とか夢のことは考えてみてはどうか?趣味の音楽を生かしてみては?」

マイケル
  「最近は病院ではイベントがないから練習してない」

うるとらまん
  「そういえばマイケルの近所で毎年12月にミニライブしているところがあるだろう。そこに出演してみるてのはどうだ。バルさんも一緒に
  どうだ」
マイケル
  「そうだね。バルさんも最近は少し元気ないからな。何か目標がないとダラケてしまうな」
うるとらまん
  「まずはそんな事からはじめてみようか。私のほうでかけあってみるから、マイケルは練習しておいてくれ」

マイケル
  「そうだね。わかった。昨日も今日も明日も病院で将棋、ゲームだけの生活には飽きてきたよ
そういえば置き手紙があったな。14日、浦添で何かあるからとか」
うるとらまん
  「マイケル、一緒に参加しよう。6時半にアパートくるよ」
マイケル
  「そうだな。わかった。6時半待っているよ」



11月14日

(左から私 Kさん、マイケル、Tさん、Oさん)

今日は浦添にあるS文化会館にいきました。3人の仲間と合流しました。

Kさん、何度もマイケルのアパートを訪問してくれました。
彼はガンで闘病中です。
マイケルのアパートは三階です。彼にとっては三階はきついと思います。
マイケル、いつも置き手紙をしていた人がKさんとわかり、Kさんの真心に心を打たれていました。

初対面でしたが居留守を使っていたとは思えないぐらい打ち解けていました。
マイケルの心に確かな灯火が点灯していることを感じたのは私だけではなかったと思います。
車中では音楽の話で盛り上がりました。
12月でのミニライブに向けて話が進んでいます。
やっぱり、仲間は最高!




11月14日



今日は浦添にあるS文化会館にいきました。
マイケルとマイケルの近所の友人といきました。
マイケル、友人が広がり活動範囲が広がりました。
楽しい一日でした。



地域でで独り暮らしの壮年が多い。健康に不安な壮年がいる。そんな仲間の家を訪ねてみようとなった。TさんKさんは、そんな活動を長年続けている。Tさん、Kさんに触発された
心の病あるマイケルが、誰かの為に汗をながすことになりました。
3人の街灯の後ろは普天間基地です。先程もオスプレイが3人の頭上数十メートルを飛んでいました。
平和と戦争を考えずにはいられない環境の中、3人は歩きます。



12月29日

今年も残りわずかとなりました。
マイケルは今年は心バリアフリー音楽祭での最優秀賞受賞、地域貢献と良い年となりました。
来年の目標は決まりました。
心の病あるマイケルが目標をもって新しい年を迎えることができました。



所詮、ネットは現実社会とは違う世界だと軽んじていました。
ところが、そのネットでの激励のコメントがどれだけマイケルに勇気と希望を与えたかわかりません。わざわざマイケルに会いに海を渡ってきてくださる友人います。

感謝感激です。
来年もよろしくお願いします。

家族

息子と家族

息子を中心に家族のことをまとめてみました。


息子が八ヶ月ぐらいでの出来事です。

 今までいくら泣き叫んでも、振り向かない母親にお母さんは、耳が聞こえないのかな?と感じはじめてきました。どうして????お父さんは、ちゃんと聞こえるのに????自分も聞こえるのに???息子は、頭を抱えます。
耳が聞こえないて何だろう・・・・どうしてだろう・・・・
 ある朝の朝食です。
オーブンがチーンと音が鳴りました。気づかないお母さん。息子は、じーと母親を無言でみています。いつもと違う息子に私は興味津々でした。
母親と息子の目があった瞬間、息子は黙って、右手でオーブンを指して、チーンしたこと教えてくれました。
息子は、お母さんの耳になることを覚えていきました。

息子が一歳ぐらいのときの話です。

息子は保育園で歌を覚え楽しそうに歌います。家内は、自分にできない事ができる息子をたくましく思えたのか、ただ微笑んで息子を見つめていました。
家内は学校の音楽の時間でのいじめの後遺症で音楽は嫌いです。
今の歌は何?聞いてきます。「赤とんぼだよ」と答えました。私は、耳が聞こえないから仕方がないと思いました。 息子が楽しそうに歌っていることを喜んでいる家内をみているだけで幸せを感じていました。
こんなやりとりがしばらく続いたある日、家内は息子が歌う、こいのぼりの歌に合わせて歌いだしました。リズムは滅茶苦茶でした。
でも一生懸命歌っていました。息子の唇の動き、身体の振動で音楽を感じていました。息子は今まで黙って聞いていた母親が突然、一緒に歌いだしたのが嬉しかったのでしょう。
大喜びで段々声が大きくなりました。 何度も歌っていました。
耳が聞こえないから音楽は嫌いと言っていましたが子供の素直な心に何かがはじけたように思いました。


息子が2歳の頃です。

妻が耳が聞こえなくて困ったことは、家に鍵がかかり、中に入れないことです。
窓の外から妻が本を読んでいる姿がみえるのですが、いくら大きな声で呼んでも、気づいてくれません。声の代わりに光で知らせる装置があるのですが自分は困らないので必要ないと妻は言います。。そんな日は朝まで車で寝ています。
ある晩の日のことです。
その日も鍵がかかり、妻は寝ているようでした。今日は車で寝るのかと思った瞬間、靴の音で、お父さんが帰ってきたことを知った息子が「お父さんだ」と私のことを気づいてくれ、ドアが開きました。靴の音で誰なのかがわかるんですね。
その時の息子の声は可愛くて頼もしかったです。息子のおかげで車に寝ることはなくなりました。

息子が三歳ごろの話です。

息子はお母さんの補聴器に興味を抱き始めます。補聴器はお母さんの必需品であることがわかったようです。
息子は悪さをしてひどく母親から怒られました。息子は反省している様子でした。これで一件落着と思っていました。
ところが次の日の朝、補聴器がないのです。
仕方なく、そのまま職場へ。息子を問い詰めると、してやったりの顔をして補聴器を隠した場所に案内しました。やったという満足した顔をしていた。

ろう者の友人が小学生の長男の家庭訪問の話をしてくれた。
息子は先生に両親がろう者であることを教えていなかった。
親が障害者であることに後ろめたさみたいなものがあったのだろうか、息子は両親がろう者であることを言えなかった。
先生は、障害がありながら子供を育てるにはどれだけの苦労があったか、それを乗り越えてきた親を誇りに持ちなさいと担任の先生が激怒した。
子供が、小さい頃はよく熱をだす。手話のできる看護婦、医者は少ない。コミニケーションには苦労した。
寝ていて子供が泣いてもわからないので、タオルでまいて腕枕にして泣き叫んだときの振動でわかるようにしたりと工夫して育ててきた。
それ以来、息子は両親がろう者であることを隠すことはなくなった。

うちの場合は私が聞こえるので息子が夜泣きすれば私が息子の世話をした。
医者との会話は私が担当した。学校での授業参観では手話通訳した。
通訳大変ねと思われる事が多いが苦に思ったことはない。手話サークルなどで耳が聞こえない人との出会いのおかげと感謝している。
車椅子、聴覚、内部障害などのハンディある仲間と夫婦でバンド活動してきた。
息子は幼い頃から多様な障害ある人との交流があり母親が耳が聞こえないことに何の違和感もないようだ。
私は一度も障害ついて話をしたことがないが息子は息子なりに自然に受けとめているようだ。
妻は教育熱心だが私は放任主義だ。
私も教育熱心では息子は勉強嫌いになると思う。
妻が叱れば私は息子をかばう。
私も叱れば息子は逃げ場がなくなる。
子供の教育の方法は色々あると思う。うちは、こんな感じで子育て楽しんでる。

息子が幼稚園生の頃です。

耳が聞こえないくくるの乙女のバンドを結成し家内はピアノを担当することになり音を息子と確認しながら練習しています。
息子はお母さんの耳になろうと一生懸命です。息子は息子なりに音が聞こえないて何だろう?どうやって音を教えたら良いのだろうと悩んでいる姿が印象的でした。音楽は親子の絆を深めてくれていました。




息子が小学1年生の頃です。

入学式での写真です。



息子は小学一年生ですが小学3年生ぐらいの漢字力があります。
どうしてなのか不思議に思っていました。息子との何気ない会話でわかりました。
妻は耳が聞こえないのでテレビは字幕でみれるテレビをよく見ます。息子はその字幕をみて漢字をおぼえたそうです。

家内が風邪で病院にいます。家内は耳が聞こえないのでアナウンスが聞こえません。息子は家内の名前がアナウンスされると家内に伝えてくれました。相変わらず動き回り落ち着きがないけど、ちゃんとお母さんの耳になってくれる息子です。



明けましておめでとう!親戚の家でくわっちーしています。



チラシが出来上がりポステイングしました。「太翔もやる」と一緒にポステイングしてくれました。汗びっしょりの息子でした。



今日は私の誕生日です。義母も一緒にお食事しました。




家族
  10月17日
太田さんと謝花さんのライブ家族で見に行きました。

11月1日
今日は息子の誕生日です。8歳になりました。義母の介護で4月から妻息子が義母宅へ引越し。それ以来久しぶりの我が家での食事です。健康であることが何よりの幸せ。

 

 11月10日
息子の運動会はじまりました。暑いです。いい天気です。

運動会です。昼飯は妻の妹の家で食べました。暑い。日焼けしました



 11月17日

今日は息子と妻がトリムマラソンに参加します。天気は最高!



息子が小学五年生になりました。
那覇市にアパート借りました。アパートの前は奥武山公園でウオーキングなどでき健康に良い場所です。
義母の介護で三年前から妻と息子は妻の実家に住んでいました。
親子の触れ合いがなかなかできませんでした。
だんだん、息子は私より友達と遊ぶようになりました。中学生になったらと思うと怖くなりました。
このままだと、息子との思い出がない小学生活になります。
そこで
義母の介護と子育てを優先して家族で那覇で生活することにしました。
自宅での生活は諸事情で必要です。職場が遠くなったなど経済的時間的負担はありますが
息子の笑顔を見ると、嫌なことすべてが吹き飛びました。
家族で食事をしたり、散歩したりすることが、こんなにも幸せなことなのかと思いました。
家族が楽しければ、いろんな問題は問題ではないと感じました。
親の介護、子育て、全て楽しくいきます。

家族

夫婦のこと

   
婦人の主張大会で県知事賞を頂きました。


[原文]

私は、今言葉を話しています。
それは、私を支えてきてくれた方々のお陰です。私が母のお腹にいた頃、風疹が流行し聾唖の赤ちゃんが約400名生まれました。
その中の一人です。私の耳はまったく聞こえず補聴器をつければ音は聞こえますが、高低音が聞こえません。

3歳から聾学校に通い唇の動きから話を読みとる訓練、舌が丸くならないように皿を舐める練習、顎に風船をくっつけた時の喉の振動で[音とは何か]教えてくれました。
健康な赤ちゃんは自然に言葉を増やしていきますが、私にはできません。
母は[ミルク]の単語を教えるために、私がミルクと言えるまで与えてくれませんでした。周りから虐待しているように見えたのか[かわいそうにそれでも親か]と言われました。

私が6歳の頃母がいつの日か待っていた言葉[お母さん]が言えるようになったのです。
普通の小学校へ入学しましたが、耳の障害のためにいじめられました。
父の仕事が失敗し生活が苦しくなりました。
心配した母の友人は桜が冬の間耐えて春になるときれいな花を咲かせる、人生も負けなければ[冬は必ず春となる]と激励してくれました。
その言葉は母を奮い立たせ一生懸命働きました。
私がいじめに耐える事ができたのは、貧乏に負けず働く母の姿があったからです。
ある日、先生は[なぜ、私の耳が聞こえないのか]授業で話してくれました。すると信じられない事が起きました。
同級生が次々と謝ってくれたのです。
嬉しかったです。

中学校では、友達の会話の中に入る事ができず孤独でした。
そんな私に近所のお姉さんが[夢を持つこと]の素晴らしさを教えてくれました。私の夢は学校の先生になること。
幼い頃口に入れて舌の使い方を教えてくれた先生の音に報いたかったからです。お姉さんは難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。教科書を毎日何回も読み返しました。
成績は学年で一番ビリから少しずつ上がり希望の高校へ合格できました。

高校ではNHK杯青年の主張大会に出場する事になりました。
私は自分の声が聞こえないので、正しいアクセントが分かりません。
不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。
私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのか、わかってくれていました。
「これからの人生悔しいことが一杯あるだろう。目の前の厳しさから逃げないで乗越えてほしいよく頑張った」と喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。
私の名前が呼ばれたのです。言葉はどんなに努力して健常者に追いつくことは無いと思っていました。
先生の恩かみ締めました。

大学に合格しましたが「前例がない。耳の不自由な生徒では、先生は無理諦めなさい」と言われました。
それでもやってみなければわからない」と何度もお願いし大学は一切援助はしないとの条件で認めてくれました。
大学では黒板に字を書きながら講義が進められます。
先生の唇が読めず授業についていけません。
耳が聞こえる人を羨んでも仕方ありません。耳が聞こえない現実を受け入れるしかないと分かっていても「耳さえ聞こえれば」と愚痴が出て悔し涙がでました。そんな時、先輩の激励で自分はベストを尽くしていない事に気づきました。教授は分かるまで筆談で教えてくれました。
教授の誠意のお陰で卒業論文が学科最優秀賞の評価を頂き、難聴者として初めて教員免許を取得し卒業できたのです。

その後、臨時教員をしながら本採用を目指したのですが、集団面接で落ちました。私には他の受験者の意見を聞き取ることは困難で頑張り抜いた教員には悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが電話の応対が出来ないので断られました。そんな時、定時制高校の生徒達の姿が心の支えになりました。
昼間の仕事の疲れに負けず勉強に打ち込む生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが繰り返し教科書を読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年県職員の採用試験に合格しました。

人生の素晴らしさは人と人の出会い支えあう事です。
その中で人生のパートナーにめぐり合いやがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げている時思うのは母の事です。
泣き叫ぶわが子にミルクと言えるまでミルクを与えなかった母、胸が張り裂けるような毎日だったと思います。
母のお陰で皆さんの前で話をしている自分がいます。

最近母を東北旅行に招待しました。日本一の露天風呂で孫を抱きながら「
かわいい、かわいい、こんな幸せがくると思っても見なかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないと分かった時の驚き、これからどうやって育てていけばいいのか迷いながら、わが子だけの幸せを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃教えてもらった「冬は必ず春となる」との言葉が重なり幸せをかみ締めました。

主人の亡き父母は村の老人会長、民生委員として地域に貢献してきました。今度は私たちの出番です。
現在主人は体協理事、私は婦人会活動を通して父母の村を愛する心を受け継ぎ、婦人会の先輩から村を誇りとする心を教えてもらいました。
これからもめぐる季節のように【感謝」の気持ちを結いまーるにして人生を楽しみたいと思います。





NHKテレビ番組ろうを生きる難聴を生きるに妻の事が紹介されました。
2012年9月2日(日)夜
あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 前編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
風疹児の数が多かったことから、聴覚障害児を教えた経験がない、手話も知らない教員が、ことばの指導にあたることになった。比嘉真弓さんも、きびしい発声指導を経験した。地域の学校に通った真弓さんは、聞こえないことでいじめにあったが、「自分がくよくよしていては前に進めない」と頑張った。高校生のとき、担任から勧めめられたのは、「NHK青年の主張」に出場すること。母親から「挑戦しなさい」を言われた真弓さんは、自分の生き方を熱く語り、県大会で優勝した。

2012年9月9日(日)夜

あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 後編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
比嘉真弓さんは、現在、県立病院で事務の仕事をしている。周囲に自分の障害のことを説明し、「口元を見せてはっきり話して」と伝えることで、スムースに仕事を進めるている。
最近は、「音楽」に挑戦。夫が始めた手話カフェで、車いすの歌手・我如古盛健(がねこせいけん)さんに出会ってから、苦手だった音楽が「こころに響く」と感じ始めた。我如古さんの詩を手話で歌うほか、自分の書いた詩を、自分のリズムとメロディーで、自分の声と手話で歌うことに挑戦し始めた。



家内と結婚して良かったこと困った事。
 
良かった事 は安眠妨害と言われずにすんだ事です。 私のいびきはメチャクチャうるさいらしい。彼女は文句もいわずにスヤスヤ僕のそばで寝ています。  困った事は夫婦喧嘩はいつもぼくが負ける事。喧嘩して不利になると彼女は補聴器をとり「聞こえないもん」で押しとうします。
手話をすると顔を横に向いてしまいます。結局は私が疲れ果てて喧嘩は終わります。

体内時計
     
家内は朝6時なら6時に必ず起きる(目覚まし時計は使えない)仕事に遅れないようにしてたら自然にそうなったらしい。
          
     
読唇術

相手の唇読んで、話の内容を理解することですが 家内は読唇術と話の内容を予測して耳の不自由をカバーしている。
その読唇術と予測を間違えると誤解が生じる。例えば沖縄のアメリカの基地問題とかの話をしていたとします。そこへ、突然、アフリカの話が持ち込まれると混乱することがあります。アメリカとアフリカの区別の仕方は、アメリカのメとアフリカのフです。
メは唇を閉じフは唇が開いています。速い口調で話しをされると、唇が閉じているのか、閉じていないのか見落とし 話の流れからアメリカの話をしていると思ってしまいます。
友人との食事などでは、そのことを説明します。初めは、みなさん、家内と顔をあわせて、ゆっくり話してくれますが、話が盛り上がると、家内が耳が聞こえないことを忘れてしまいます。

 ある集会での出来事です。
中心者が下を向きながら話をしていたので口の動きを読み取れるように顔を上げて話をしてほしいとお願いしました。 わかりましたと返事をしましたが、また、下を向いて話をしていました。 話の内容は、相手の立場になって考えようでした。
 別の集会での話しです。中心者が本を抱え、唇が読み取れません。上と同じく願いしました。返事は、ハイでしたが、やはり、本が邪魔で家内は話の内容がわかりませんでした。 集会が終わり、次回から、耳の不自由な人にも配慮してほしいとお願いしました。
返事は、あんたが、通訳すればいいでしょでした。話の内容は弱い立場の人を応援でした。  
多くのろう者は、こんなことに慣れています。
不便であること、辛いことに慣れ、ある意味では、そう、割り切っていかなければ、生きていけないとのことです。

   
今日は9回目の結婚記念日です(2013年)。
いい奥さんもらえてよかったなと思うこの頃です。

結婚は親は反対していました。妻が障害者であるからでした。

義母も耳が聞こえないけど本当にいいの?と疑っていました。
本人も耳の障害で辛いことがあったようです。


私は逆に手話が覚えられていいと思いました。
親は耳が聞こえない子供を心配していましたがメチャクチャ元喜な息子が生まれました。
息子のことはここをクリックhttp://kukuruno.ti-da.net/e5495991.html

耳が聞こえなければ一緒に手話を勉強しようと思いました。

結婚して彼女で良かったと思ったときは7年前の出来事でした。
ある平和団体の盲ろうの友人から、そこの団体の会合での手話通訳を頼まれましたが迷惑と断られました。
そのことを妻に話しました。
妻はいいました。「テレビの音を消して。口がパクパクしているだけで楽しい?これが私の世界。盲ろうの人は、映像も見れないのよ」
大粒の涙を浮かべ怒りで震えていました。
耳が聞こえない人が身近にいながら、耳が聞こえない人の気持ちを知ら無さ過ぎる自分が情けなくなりました。
そのことが手話通訳設置をお願いし続ける力となり、7年目で実現しました。
妻の大粒の涙を見なければ健常者中心の社会に慣れていた私は罵倒されてまでお願いし続けることはアホらしいと思ったと思います。



12月30日
県知事賞受賞  NHKろうを生きる難聴を生きるテレビ出演 ケントミファミリーのメンバーとして海を渡ってのライブ活動と充実した歳月が流れ今年も終わろうとしています。
来年はじっくりと充電の年とし再来年は飛躍の年にしたいと思います。
来年もよろしくお願いします。
 

家族

     


慰霊の日 学童疎開

太平洋戦争末期、学童疎開船対馬丸が魚雷攻撃で沈没し1400人余りの命が犠牲となりました。父はその一週間後に那覇の港を出港しました。留まるも地獄、出るも地獄とはこの事です。
疎開先は熊本県の山鹿町でした。沖縄を発ときの荷物制限で冬物がなく寒さと飢えに苦しみました。帽子を落とし、拾うふりをしてみかんの皮を食べていました。満足に風呂も入れずシラミが発生して空腹を忘れようと早く寝床に就いても、かゆくて眠れない日々もありました。
親元はなれた寂しさ、空腹、寒さに耐え忍んでいることを知った鹿本郡の婦人会が、食料、古着、布団などを届けてくれ父は生前涙ぐみながら感謝していました。

 初めて見る雪に感動し見とれてしまい掃除をしなかった罰として沖縄の生徒全員、冷たい土の上に正座を命じられました。それを2階から見ていた高等科の女生徒が「これを足の下に敷きなさい」とつぎつぎと頭を守る大切な防空頭巾を投げ落としてくれました。霜焼けで素足で汚れた足の下に敷きなさいと防空頭巾を渡してくれた女生徒のやさしさを父は生涯忘れる事はありませんでした。

 遠足のときの事です。弁当がなく木陰で休んでいる沖縄の生徒に気づいた同級生の渕上淳一さんが 皆に呼びかけ弁当を分けてもらいました。父はよっぽどうれしかったのでしょう。慰霊の日には涙を浮かべながら、このことを何度も話してくれました。渕上さんに会いたがっていました。きっと、お礼をしたかったと思います。

 お金を払わず入浴しても見て見ぬふりしてくれたさくら湯の番頭さん、いつも援助してくれた森本商店の森本勝馬さん,紀さん、三玉校長高本義彦さん、引率していただいた照喜納先生、熊本の皆様、父が大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。 有難うございました。

父は熊本の人に感謝していました。高校野球は熊本の代表がでると一生懸命応援していました。

慰霊の日には必ず、学童疎開のことを話していました。私は父の遺言との思いで語り続けたいと思います。




父の闘病生活

76歳で父が亡くなった。
トラック運転手を50年間続けた。80歳まで続けることが父の目標であった。村のサトウキビを50年、製糖工場に運んだ。
村の農家で父を知らない人はいない。
幼い頃からトラックに乗り父の働く姿を見て育った。子供の頃はクーラーもなく夏はトラックは暑かった。父は日焼けで真っ黒であった。

そんな父がガンに侵された。最初は大腸ガンで手術した。2回目な肺がんであった。手術はしたものの完全にガンを取り除くことはできなかった。
父は死なないと思った。死なせてたまるかと思った。しかし、ガンは父の体を蝕んでいった。
抗がん治療は効果はなかった。
病院に呼ばれた。厳しい現実を聞かされた。それでも私は父は死なないと思った。奇跡をおこしてやると思った。しかし、酸素ボンベが必要な状態になった。今しかないと思い、父の願いであった弟のいる福島に家族全員で旅行にいった。
弟も良く頑張ってくれた。仕事を休んで観光案内し、おいしい手料理で精一杯の親孝行してくれた。弟には心から感謝している。

旅行から帰り、家で父と過ごす時間を作った。5月頃、父が高熱で病院に入院した。
「延命治療しますか」医者にいわれた。
「家族と相談します」というと医者は、「今決めてくれ、今日か明日かもしれない」と言われた。
私は父の生前の約束、延命治療はしないことを告げた。苦渋の選択だった。
父は肺炎を乗り越えて危篤状態を脱した。

6月頃、病院に呼ばれた。ガンは全身に移転している。痛みが激しくなる。ここでは、これ以上の痛み止めの治療はできない。自宅では無理だ。ターミナルケアーの病院をと勧められた。
痛みが激しくなり、どうしょうもなくなれば先生の指示に従います。それまでは自宅に帰してくださいとお願いした。無理だ。痛みが激しくなる。自宅では無理だと医者は最初は私の願いを拒んだが自宅に帰ることの許可をもらった。

父は車椅子となり、病気が治っていないのに自宅に帰ることの意味をわかっているようだった。
病院からの帰り、大西ゴルフ場から見える自分の生まれ育った村をみて「村はいいな」の一言を私は忘れることはできない。
妹が父の看病に来てくれた。妹が父に聞いたそうだ。「思い残すこと何?」父は何もないと答えたそうだ。
我が人生、悔いはないと言い切れる人生を送った父を私は誇りに思う。
近くの病院で父を毎日見てもらった。痛み止めの薬は準備されていた。しかし、父は体はだるいものの、痛みは訴えなかった。
亡くなる三日前、父の長年の老人会長としての感謝状が届けられた。父はそれを固く胸に抱きしめていた。
そして、7月13日の朝5時ごろ、父の体が急変した。「だいじょうぶ」との問いに{うん」とうなずく父。
これが私と父との最後の会話となった。

医者を呼んだ。医者は病院に搬送したら2日3日生きながらえます。どうしますかといわれた。
私は、畳の上でお願いしたいと告げた。
ちょうど、そのときは台風で妹家族、私の家族、親戚も家にいた。みんなきてもらった。1時頃、父はなんの痛みもなくフーと息をはいて寝るようにして亡くなった。

医者が用意したモルヒネは一度も使うことはなかった。
医者は「こんな安らぎある死相は初めてです。生前の行いが良かったんでしょうね」
親戚から「よく頑張った。親孝行したね」といってくれた。
しかし、心のどこかに、ひっかかるものが在った。もっと、他にやることがあったのではないか。もっと親孝行したかった。生きていてほしかった。
医者は「どんなにやっても心残りはありと思います」といってくれた。

私はその一言に救われる思いがした。

、父が愛した生まれ育った北中城村字和仁屋に貢献することが父が喜んでくれることだと思った。

人にだまされ信用財産を失い、信頼していた人たちから罵倒されていた私を村の区長は公民館建設員に推薦してくれた。
村の人の温かさ、そして、父への村人々の信頼のおかげだとおもった。
私は喜喜として公民館建設に汗を流した。
やがて公民館が完成して公民館の玄関に飾られた村に貢献してきた方々の写真をみて思わず涙が流れた。
そこには、私のおじいゃん、そして、青年会で活躍したいた父、私の写真が飾られていた。
馬鹿な私ではあるが、子供、孫に自慢できると思った。
おじいちゃん、親父、地域貢献する幸せ教えてくれてありがとう。


ハワイの親戚

兄は米兵、弟は学徒兵として沖縄戦で戦う事実に基づいての映画を見た。
その映画をみておじいちゃんのことを思い出した。
私のおじいちゃんは若い頃、ハワイに移民しパイナップルで成功し、第二次世界大戦前に沖縄に帰ってきた。
おじいちゃんには二人の娘がいたがハワイに渡った。
二人の娘、私のおばさんはハワイでお会いしたことがあった。
真珠湾攻撃のとき、ワイキキから、花火と思って楽しんでみていたという。
日系一世は収容所に連行され 2世、3世が呼ばれ日本と闘うか、闘わないかの2者選択を迫られた。
従わないものは収容所、従うものは、徴兵された。
日本語、英語のできる彼らは壕に逃げて出てこない住民に出てくるよう呼びかけるのが彼らの仕事でもあった。

ウチナンチュを一人でも助けたいと激戦地沖縄にきた2世、3世。
ハワイでお会いしたおばさん、多くは語らなかった。いや、語りきれなかった。
両親、兄弟いる沖繩に戦争に向かった日系人のことを、どんな思いだったのだろうか。





2013年7月

今日は両親のお墓参りいきました。ひさしぶりの、従兄弟との再会に喜んでいた息子でした。福島から弟家族がきてくれました。
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